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昭和43年05月18日 月次祭
祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かるのぞと祭典前に御祈念を致しますね。もう一心にお縋りを致します。それも大事信心には拝むと言う事はもうどうでも必要な。ですから、拝む事も一心不乱に拝まなければなりませんけれども、それよりももっと大事なのが、お道の信心では話を聞く事と教祖は仰っておられます。勿論その話というのは、落語や講談ではない。言うなれば神様のお心を話にして聞かして下さる。
もっと言うならば金光大神が、いわゆるこの方金光大神が、天地金乃神よりおかげを受けて来た事を、話しにして残しておくと仰せられる、話なのである。天地金乃神よりおかげを受けて来た事を話しにして残しておくと。もっとそれをリアルに申しますと、ここでは私が、神様から直接お伝えを頂いた事を、皆さんにお伝えをするので御座いますから、それは先生の話、大坪総一郎の話ではなくて。
言うならば神様が直々に皆さんに、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよという切々たる願いというか、そういう思いを話しにして下さる訳です。ですからもう拝む事よりも祈る事よりも、何と言うても話を聞くと云う事が一番、大切であると同時に尊い事なので御座います。他所に参りますと皆さんどうぞお足を楽にして下さいと言われるですけれど、私は申しません。
私は横座りどんしとるならいっ時ばっかりじぃっと、座りなおすまではこうやって見とく様な気持ちがいたします。何故って勿体ない。私の話ならともかく、神様のお話なんです。足も痛かろう、膝も痺れる様にあろうけれども、それが修行なのです。それが神様の心を頂かして貰う、分からして貰う、それが姿勢なんです。頂く者の態度なのだ、と。私は確信しておるから。
ここでは皆さん、がキチットして服装も、シャツ一枚などで、夏でも参って来る人が、段々少なくなって、そしてその話を、皆さんが頂かれるので御座います。ですからお話というのはその様に、意義をもったお話で御座います、お道の信心のお話というのは。普通で言うお説教とは違う。祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かる。助かりたいのは皆助かりたい。
そこでそのどう言う様なあり方にならせて頂いたら、助かるかと言う事で御座いますから、その話を分からんでもです、聞くのです。もうもし耳が聞こえんなら一生懸命それでおかげが頂けるです。そのお話そのものがお徳なのです。そのものが神の声なのだから、そのお徳に浴するからおかげを頂くのである。どうも先生のお話はぶん高いどうもこの頃、御理解が分からん。
分からんでもいい、一生懸命頂いておればいいのです。そして分からん所がありゃあ尋ねてもいい。御理解さえ繰り返し尋ねるがいい。今日福岡からある方が参って来て、先月12日が福岡支部のご大祭でした。ご大祭の後の、私はお話の中に、自分一人が助かる事の為に信心があってはならない。自分以外の沢山の人の為に、大きな意味合いにおいての、助かりを願わして貰う所に信心にならなければならない。
為には天地、例えば書付を拝しましてもです、「生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にある」と仰せられる。おかげを頂く為には自分の心が、和らぎ賀ぶ心にならなければならない、どうぞ生神金光大神 天地金乃神一心に願わして頂く事は私の心が豊かに、しかも美しゅう、和賀心、和らぎ賀ぶ心になります様にという祈り願いであったけれども、是からは皆がその綺麗になるとか改まるとか。
磨くと言う事も和賀心になる事も。それは人が助かる難儀な人が助かる事の為に、少しでも世界が明るく成る事の為に、いよいよ教団が立派な教団としての立ち行きがあり、難儀な氏子がいよいよ助かって行く事の為に、どうぞ私が改まりますから、私が磨きますからというて、願わなければならんと言う様なお話を、まあテーマにしてお話をしたんです。たら、今日参って来てから言われるんです。
少し御神酒が下がっとる、家へ帰ったお父さんが、そしてそのお母さんが帰って来たのを捉まえてから言われる。俺はどうも親先生が言われた事が分からんごとなった。何が分からんか、今日はあげな有難い御理解頂いたじゃないですか。あの俺は御理解が気に食わん。今まで信心とはもう、私が助かる以外にないですよ。私が本当に助かる事なんだ。人じゃあない、もう自分自身が真実助かる事が助かる事だと言われた。
その先生が今日おまやその口調、裏腹にする様にして話された、成程私はそう申しております、人じゃあない子供じゃあない家内じゃない、主人じゃないあなた自身が助かるのだと。あなた自身が助かるのだあなた自身が助かる為に、愈々生神金光大神天地金乃神一心に願わして頂くという、その一心に願うという事は私自身が愈々助かる事の為に和賀心、和らぎ賀ぶ心になるのだと言うて説いて来た。今でも同じ事、
そういう例えば、和賀心がいよいよ心に育って参りましたら、その和賀心をもって、今度は、言うならば周囲の事の為に、周囲の人達の為に、難儀な氏子の為に祈れれる私にならなければならない。是が確かに信心の過程なんだ。先ず何と言うても矢張り自分自身が助からなきゃだめだ。自分が助かっておらずしてから、人を助けるなんておこがましい。 そうでしょうが、自分が泳ぎきらんでおいてから。
そこに溺れる者がおって助けに行きよんなら自分もむこんとも二人ながら溺れんならん。先ず自分自身が泳ぎを習う事は間違いのない事だけれども、自分がただ泳ぎ廻って遊んでおるというだけでは、泳ぎを覚えたというだけではいけないのだ。その泳ぎの手を覚え泳ぎの道を覚えたのであるから人にもそれを教える。人が難儀で溺れておるならばそれを助ける、救うと言う様な信心に。
からはひとつ進んで行かなければならないというのである。だから話を聞いて助かる道ですけれども、その話をさあ頂き損ないました、誤解を致しましてから頂いたのでは、いわゆる誤解になってしまいます。 それはおかげの方まで誤解になってしまう。おかげの方まで狂う手来るので御座いますから、この辺をひとつ、素直に素直に聞かにゃいけません。御理解でも、御教えでも、同時に分からなかったら。
矢張り先生、あなたは先日はこう仰ったが、今日はこうですが、それは大体どういう意味なのですかと言うて、尋ねる勇気が必要である。帰って俺は分からん事なった言うただけじゃ詰らん。分からんなら分からんで尋ねていかなければいけない、話を聞いて助かる道。そんならばね、話を聞いてどの様な助かり方になって行かなければならないか。いよいよ大きく。いよいよ豊かなおかげを頂きたい。
そういうおかげを受けたい。是は今年の元旦に申しました。今年の信心の言わばスローガンである。もう事ある度にその事を思い出す。はあここが大きゅうならなきゃならんとこだ。ここがいよいよ豊かにならにゃならん所だ。いよいよ豊かに大きゅうならして頂くと言う事を、心掛けさして頂いておる皆さんも、矢張りそうであろうとこう思います。いよいよひとつ、どうぞ話を聞いて助かる道。
しかも大きなおかげをかせて頂くものですから、皆さん、眠かったっちゃひとつ頑張ってからひとつ聞いて下さい。大きなおかげを頂きたいのですから、皆さん。ですから、今日のお話を聞かれて、皆さん成程だと、合点がいったら、本当におかげの頂けれる道がもう今晩からひらけます。御教えというのは、そんなに大変な、大事なものなんです。最近言われております。
お道の信心の一番大事な所、それは自らなる心への帰依と言う事が言われます。自分自身の心へ帰依する。はあもう私の様に浅ましい、もう私の様に汚い、しかも私の様な強情な、決してそんな事はないです。是はもう神様が、神様のわけ御霊なんだ。強情に見える。浅ましゅう見えるのは、それはあなたに付いておる、あなたの家から伝わっておるめぐりが伝わっておるだけなのだ。
そういゃあお父さんも強情だった。ありゃお父さんじゃあない、お父さんに付いておるめぐりが強情じゃったんじゃと言う事になる。成程そういゃあお母さんも汚かった。お母さんのその汚い心お母さんじゃあない、お母さんに付いておるそのめぐりが汚いのである。お母さん本心のこの中にあるもの、神様から頂いておるものは、もうそのままが生神様なのだ。教祖の神様はその事を教えておられる。
ですから自分のそのめぐりというものが取り払われていく時にです、自分の心なる神に帰依する事が出来る。言わば我とわが心が拝みたい程の有難さが、ここから生まれて来るのであるはあ何と自分は有難い事であろうかと、我とわが心を拝まし頂けれる様になる。自らなる心に、心への帰依が第一だと言われておる。はあ眠かろうけれどしっかりまだ目を開けて下さいよ、皆さん。
段々温うなると眠気が来る。そらもう膝ばしっかりこうねずどかにゃん。もう他所ん人、他所の人の膝ば見よらにゃ、でけんけんで(?)(笑)。私はもう朝でん御祈念中にぐうぐういうち、いびきかかっしゃる人があります、そら自分の気持ちの様に横どん人ばこうやって、つつくぐらいな気持ちじゃなからにゃいかん。それがあいよかけよです。私が眠ってる時にゃいっちょ教えて下さい。
私がもし眠った時にはつねったっていいけんつねって下さい。というふうに頼んどかにゃん隣近所に。本当ですよだって話を聞いて助かる道なのだから。私の方の家内もそりばってんか私の話が始まると眠うなるごたる風です。大売出しもあるとぴしゃあっと目が覚めてからもうもう是では愈々いかん。だからもうその話というものがそんなにその、はあ又お話を聞かんならんと言う様な気持ちでは金光様の信心にもとるのです。
もう話を聞く事が有難い楽しいね、勿体のうしてこたえんという気持ちで頂かにゃいかん。いいですか今私が申します自らなる心への帰依である。先ず我とわが心が拝めれる様になる本気での稽古をなさらなきゃいかん。どう言う様な信心さして頂いたら自分の浅ましい自分が汚いと思うておったけれども、それは自分自身ではなくて巡りが汚いのであり浅ましいのであって。
是をちょっと横へやってみると、自分自身の心の中には、拝める心があるんだと言う事。神様と同じ心があるんだと。次にはね御教えへの帰依、金光様の御信心を頂いております、所謂教義教典所謂御教えなんです、私がこうして皆さんに伝えておるそのお話その物への帰依なんですそのお話その物がです、本気で合掌して頂かせて頂けれる事にならなければならん。それを合掌して本気で頂かなければならん。
頂くと云う事は聞くというだけではない、聞いてそれを行じて自分のものにしていかなければならん。しかもその御教えがです、もう限りなく深遠なものであるから、限りなく広大無辺なものであるから、その広大無辺なその御教えを同じ話の中からでも、いよいよその深さを、その広さを追求して、それを頂いていかなければならん。皆さんここんところがどうでん、皆さん本気で分からにゃいかんです。
今日も朝の御理解頂いた後、今日は御用があって、ここに高橋さん、昼ごろ残っておられた。その時に言われるのに、もう本当に唯ただ、最近の御理解頂いておったらもう恐れ入ってしまう。その深遠さ。その深さ広さにはもう、限りがない程にある。先生今日の御理解でもあの様に、言うならば噛んで含める様に教えては下さったけれども、果たして分かっておる者が何人あっただろうかと言うて心配しておられる。
まあ高橋さんといやあここで最高の学問を身に付けた方、どうして先生のあの言葉の中からあの様な言葉が出て来るだろうか。もうそれが第一、不思議で堪らんと言う様に言うておられます。それはね、神様の知恵だからなのであります。言うならば、神様の知恵に私が浴しておるからなのであります。私の頭の中から出て来るものじゃあない。ですからもうあっあの話は何時か聞いたというお話でもです、もう繰り返し繰り返し聞かせて頂いておく行く内にです、愈々その深さ広さに触れていく。
その深さ広さに触れて行かなければ、なぜいけないかと言う事が大体は今夜の御理解のテーマなんですよ。唯おかげを頂いていきゃあいいじゃいかん。いよいよ広く、いよいよ大きく、おかげを頂いて行く為にどうでも、御教えの深遠さと言う事が分からにゃいかん。その深さが分かって行かなければいけん。場合には、だから教学的に。いわゆる理論に立った所のお話でも頂きこなせれる様にならにゃいかん。
だから勉強しなければいけない。もう一つ言われております事は、取次者への帰依と言う事で御座います。自分が取次ぎを願う言うなら金光大神への帰依である。自分がお取次を願う先生への帰依である。先生はあぁ言いなさるけれども。けれどもを付けた所には、もうすでに頂いておるとは言えない、取次者への帰依ではない訳だ。今日はその中のね、真ん中のところ。
何故そうした深遠な御理解のその深さ広さに伴うて、信心を進めて行かなければならないか。私は今日こう言う様なお知らせを頂いた。はああれは頂いてからもう本当に簡単な事にどうしてこんな事が分かっとらんじゃったじゃろうかとこう思う。分かっておる様であってもその、それが何故その様に大事な事かと言う事が、そのはっきり言葉に出して説明も出来てなかったし、自分も分からなかったと言うのはですね。
例えて言うとここにまあ谷川がある。もう地球流れの谷川があると致しましょうかね。実際谷川が。その谷川が例えばこのお広前いっぱいの大きな池なら池。堤なら堤に流れ込んでおる。しかもその水が今度はまた下の方へ小さい出口から次の谷にこう、流れておる訳である。そういうお知らせであった。はあお恵みというのはもう、皆に一様のおかげを下さってあるのである。
世界中の氏子におかげを下さってあるのだ。もう限る事のなく、是から流れておるのだ、尽きる事がない。けれどもその途中でその堤の大きいか深いか、広いかと言う事によって、そのお恵の水を貯えるだけのものが、頂けるか頂けないかと言う事になるのです。そうでしょうが。私共が小さい、浅いものであったら、ただそこを流れて行くだけなのである。いよいよ、このお恵みのお水をです。
豊かに大きく頂こうと思うならば先ずこの受け物というかね。この堤というかこの堀なら堀がです愈々広い、しかも深いものでなからなければならないかと言う事が分かるのです。ははあ成程是じゃ愈々今年の年頭に頂いた、愈々豊かに愈々大きくと言う様な事はです、神様が愈々大きなおかげを下さろうとしておるならば、愈々豊かなもっともっと広いもっともっと大きい深い私にならなければならないかと云う事なんです。
所がこの位ばっかりの事を言われたらもう腹が立つ。結局このくらいなおかげだと。もうちょいとすりゃあもうぷりっと。もうあんたはそれだけなんだ。ちょっと難儀なことがあるともうへこたれる。誰かどうか言うたちいやあもう心を傷つけられる。そら傷つけられてもいいけれども、言わばこんなに小さい自分であると言う事を、その事によって知らなければいけない。
愈々心を豊かに大きく頂かして頂く稽古を本気でせにゃいかん。何時も言われます様に、どんなに苦い思いをする様な場合であっても、はあ今こそせんふりを飲ませて頂きよる時と思うて、それを有難う頂かにゃいかん。苦いけれども有難い。して行く内に心の胃腸が強うなる。どの様な物を頂いても障らない、頂きこなして行く訳なのです心が。今日はそこの所とはちょっと違った所を聞いて貰う。
今日はね皆さんの信心がこの頃、歯が欠けておるから、もうおらびよる所からつん漏れる。お話が頂き難いでしょうけども辛抱して下さい。お互いが心をいよいよ強いものに、大きいものに豊かなものにして行く為に、どんなに難儀な問題が起こって来ても、それを是に頂きこなそうとする精進、努力。そこにもう専念しなければいけない。はあたったこの位な事がもうイライラしよる。
たった此の位な事がもう腹が立ちよる。自分なこのくらいな小さい受け物である。是では大きな豊かなおかげは、受けられないと分からして貰うて、ここのところをいよいよ、苦い思いをする、その苦いそれを神様が下さる所のお薬だと思うて、金光様金光様でそれを頂きこなさして頂きよるうちにです、そういう苦い問題も嫌な問題も有難く合掌して受けれる様に段々成って来る。
是は心の大きゅうなって行く事を、そう言う風に表現されましたけれども、今日はね、お互いの信心が育つ。信心が大きくなって行かなければならない。信心が豊かにいよいよ大きゅうなっていかなければならないと言う事を、皆さん聞いて頂きたいのです。いよいよ信心が大きく豊かになって行く事の為に、是は同じ事。いよいよ吾れが自分自身の心の、神への帰依。その為にです、いよいよ、親先生への帰依。
親先生の教えて下さる事に対する所の、親先生を信じ信じられる所の私。親先生を信ずる。親先生も信じて下さる。信じ信じられる所の仲というものをいよいよ、育てていかなければならない。同時にいよいよ御教えのその深遠さ、いよいよ、御教えの深遠さ。今まで知りえなかった所を知って息、今まで気付かなかった所を気付いていき、今まで小さな信心であった信心を大きくして行くと言う事。
信心をいよいよ大きくして行くと言う事に、今日はそこの所にお互いの信心がどの位大きゅうなりよるかと言う事を見極める。そして信心を愈々育てさして頂こう、愈々大きゅうならして頂こうと言う事にならにゃあいかん。信心が大きゅうならなければ、言わばおかげが大きゅうならん。信心が大きくならにゃあいけません。昨日は宮の陣教会で築水連合会の信徒会が、ここからも10何人おかげを頂かれておる。
秋永委員長を先頭にしてから皆おかげを頂いた、皆こちらへ帰って来てから、その共励会の模様を聞かして頂いておる中に、最後に宮の陣の教会長先生である、あちらのお婆ちゃまですね。のご挨拶があった。その中に桂先生のお話が出たね。桂先生が何時も言いよんなさった。小倉で大体修行しておられますからね、だからよく知っておられる訳です。 桂先生が何時も言いよんなさいましたですよ。
竹の筒にはボウフラがわく、大海には鯨が住もうが、大海の様な信心せにゃいかんばい、大海の様な信心せにゃいかんばいと言うて教えられた。それがあんたどんが信心などうも、竹の筒に水が溜まった様な信心じゃけん、ボウフラぐらいなもんしかわかんと言われた。それなら竹の筒の様な信心とはどう言う事かと。心が細いとか大きいじゃない、ここんところに成って来ると。大きな信心とは。
竹の筒に水が溜まる様な小さい信心とはどういう信心か。大きな信心とはね、大きな信心とは、最近私が言うておりますように、自分一人の助かりの事の為ではなくて、それが、教団の助かりというか。例えて言うならお広前のごヒレイというか。例えばここで言うなら久留米全市の助かりを願う、本気でそれが願えれる所の信心。随分神心が強うなからなければ、だから願いはない事に成って来るのですよね。
愈々われとわが心が拝めれる様な愈々自分自身が本当に助からなければ、人の事段じゃなか、自分の事でいっぱいとこう云う事になるのです。ですからね、いわゆる大きな信心とはです、自分自身が助かると言う事と同時にその助かった力をもってです、自分の周囲周辺、又は自分のご縁を頂いておる所のお広前の繁盛発展を願わして頂くと言う事。しかも私が改まりますから、私がいよいよ磨きますから。
どうぞお広前の発展をという、例えばお広前の発展の事にだけにしぼってみましょうね。もっと大きい、世界真の平和、世界総氏子の助かりと言う様な大きい事にもなって来るのです。先ず自分自身のご縁を頂いておる所のお広前、その教会がいよいよ発展する。その中に自分も一緒に発展していっておるというおかげ。ですから私共が、私が修行致しますから、私が日参を致しますから、私がいよいよ和賀心にならせて頂く事を願い続けさして頂きますから。
どうぞお広前の発展をお願い申し上げますと言う様な信心なんです。そういう信心を大海の様な信心と桂先生は仰ったと言う事。私はその話を聞いて、そこだけを聞かせて貰ってですね、はあ素晴らしい。そこんところが分からなかった。この四神様の御教えはもう、それこそ合楽ではもう、それこそ何百偏頂いたか分からない。それをただ、心の面にだけ頂いておった。
どういうものが流れ込んで来ても、もうそれを平気で受け入れられる様な私にならにゃいけん。大海の様な心にならにゃいけん。そこには鯨が住むのだというおかげ、話をして来たがです、それもそうなんです。自分自身が先ず助からなければならない。けれどもそういう助かった心で。自分以外の事を願う信心をもって、大海の様な信心である。唯ほんなもうどげなよか信心しておっても。
どげな素晴らしい人が、真似出来んごたる修行しておっても、どんなにその人が美しい人であるというても、どんなに立派であるというてもそれが唯私一人の為の信心。自分一家の為の信心であったならばそれはもう必ず、ボウフラぐらいなものしか湧かない。そういう信心をもって、竹の筒に水が溜った様な信心というのじゃ、と言う事を頂かせて頂いてですね、成程そうだなあと言う風に私は思うのです。
皆さん本当に皆さんにどうでしょうかと言うてもですね、皆さんは私の祈りが出来る筈はないです。ですから、今晩を境にです、私がお参りも致します、修行も致します。私が磨きも致します、改まりも致しますから、どうぞ村内の繁盛。隣近所の繁盛。そこに知った人の中に難儀な人があるならば、その難儀な人の助かりの事の為に、私が改まらにゃいかん、私が磨いていかにゃ遺憾。
お広前の愈々発展のおかげを頂かせて頂く為に、朝のお参りをさして頂く。どうぞ明日の朝から。難儀な氏子がどうぞ助かって参ります様に。おかげを頂きます様に、どうぞお広前が賑わいます様にと言う様な願い、その為にも私が朝参りを致します、私が磨きます私が改まります。と言うて例えて言うならばはあ今日は例えば何時もは50人だけれども、今日は60人のお参りがあっておる。
その事をお互いがお礼を申し上げる神様、おかげで今日は60人のお参りがあっております。今日は70人、今日は80人のお参りがあっております。と言う様にです、おかげを受けた事に対してお礼を申し上げる。願う所に、願いのかけ所が、お広前を中心にしてかけて願わして頂ける様な願いを、その為に私が改まりもするのであり、その為に私が磨かして頂きますのであると言う様にです、お互いの信心が。
大きく育って行くと言う事。それが大海の様な信心であると言う事になるので御座いますから。鯨の住む様なおかげを、おかげを頂かなければならんと云う事が分かるでしょう。今日、私は相撲が分かりませんから滅多に見ませんけれども、今日は丁度あのしまえがたんの所がありよった。たらまあ解説の何とかという(?)のお相撲さんが言うております事の中にですね、こう言う事を言うておる。
相撲の中にはですね、自分自身の力をですね、只維持して行く為に稽古をしておるという、相撲もう愈々新たな手、愈々本気で強うなろう。というて、相撲の稽古をしておる二つの向きがあると言う事を言うております。私はそれを聞かせて頂いてですからですね。本当にこれは素晴らしい事だな、信心の上にもそれと同じと言う事を感じます。現在頂いておるある程度おかげを頂く。
ある程度信心が分かるもうそれなら分かった、信心をもう是から先は細めない。是から先は信心を落とす様な事はせんけれども、そこん所の維持の為に一生懸命、その維持の為に一生懸命になっておるという信心。けれどもです、いよいよ新しい知識を身に付けて行きたい。いよいよ新しい、言わば深い広い所の深遠な御教えに浴して行きたい。いよいよもっともっと素晴らしいおかげを頂きたいと絶えず。
より強くなる事の為に稽古をしておるお相撲さんがある様に、信心も矢張りそういう信心の体質でなからなければ、今日私が信心が育ちませんのです。もう自分の頂いておる事だけが、もう間違いないのだから、是を維持してさえ行きゃあ間違いない。現在のおかげがなら頂けて行くと、自信がある。もうその為に只維持をいておるというだけの信心。いわゆる自分をもう肯定してしまっておる訳なんです。
自己を肯定しないでの生き方。是ですんだとは思いませんという生き方。そこに自己を肯定しないでの生き方が望まれる訳で御座います。次に言うております。そういう例えばです、次の新たな手、新たな力を頂いて行こうとするお相撲さんはですね、もう先輩の事を師匠の事をですね、もうそのまま聞くちゆうです。お前のそのあそこが悪いじゃないかと言われたら、もうそこを改める事に一生懸命になるっちゅう。
お前のこげな癖があるから、ここを止めなさいと言われたら、もうそこに一生懸命になると云う事を言うております。先輩が師匠が教えて下さる事ですら、もう自分だけがもう是でよかと言った様な考え方では信心が、言わば今日の御理解から言うと成長しないのです。何時も自己を、是はもう師匠とか先輩だけじゃないです。言わば負うた子から教えられても、はっと気が付いたら改めて行く信心にならにゃいかんです。
それが何時も、もっと素晴らしい知識を身に付けて行きたい。もっと素晴らしい、神様のお働きを身に付けて行きたい。もっと素晴らしい深遠さに触れて行きたいという、そういう止むに止まれぬ願いというものが、お互いの心の中に何時もなからにゃいかん。求道心が愈々求めてやまない求道心なのである。でなかったら成長しません。先程末永さんが言うておりましたように。
一生が修行だと言った様な意味の事を言うておりましたよ、私共は一生そこんところにね願いを掛けて行く。だから信心が何時も釘付けではない。何時も信心が変わって行きよる。今日はそういう例えばお互いの信心がですね、うん信心が育つと言う事。お広前を遠ざかるのはおかげの抜け始めとこう仰る。だからそれと反対の事を言うてもいいんすね。お広前に近う近うと、お参りさして貰わなければおられない時には、もう信心がどんどん進んでおる時だ。
信心が身に付いて行きよる時だと言う事が言えます。そうでしょうが。朝お参りしても晩も又、ちょっとお参りさして貰わにゃいかん。今晩の御理解やどげな御理解じゃろうか。そういう時には信心がぐいぐい身に付いて行きよる時。いいや私は信心は落としません。いいやもう神様のご恩は忘れません。成程神様そのものがいっちょん変わりよらん。けれどもそれから段々段々、離れていきよるからどげんなりますか。
始めの間は是が三重に見える様に五つに見える様になる。終いには見えんごつなって来た。お広前を遠ざかるのは信心の抜け始め。教祖はそう教えておられる。だからそれを反対に言うとです、お広前が慕わしゅうて慕わしゅうて堪らん事成って来る。折角朝の5時の御祈念ではなくて、お昼の御祈念が4時からあよるから、もう4時からでもお参りしようごとしてたまらちゅう事なって来る時に。
もうあなたの信心がどんどん、信心が身に付いて行きよる時と言う事が言える訳です。そういうですね、ひとつの信心の、定規というものを、矢張りここに押し当てていかなければいけない。自分が是なら間違わんごとあるけれども、とにかくお広前に参る事が億劫になって行きよるならば、もういよいよあなたの信心は抜け始めであるから、ここに何とか苦労をしなければいけないと言う事になるのです。
それとは反対に。御理解を頂く事が楽しゅうて堪らん。お参りをする事が有難い。一言、でも余計に御理解を頂きたい。御理解が頂きとうて頂きとうて堪らんと言う様な、時には、もう信心がいよいよ血に肉に成って行きよるその楽しみなのです。そう言う風にです自分の信心を一偏確かめて見ると、自分の現在の信心が分かる。なら現在のままでよい筈はないので御座いますから。
いよいよ大きく、いよいよ豊かに頂いて行かなければならんので御座いますから、いよいよ豊かに大きくして良くと云う事は、いよいよ自分自身の心を大きくしていく稽古を一生懸命さして貰うと言う事と同時に、自分の心に憚らない様な事が起こった時にです。それがもうどうにもこうにも堪らんごたる時にはです、自分の信心がこの位だと悟ってです、いよいよ、もっと大きくなる事の為の修行。
精進を何とか工夫しなきゃいけん、それだけじゃいかん。もっと苦いものを飲んでみるがいい。そこんところを私は工夫しなければいけないと思うんです。今日の御理解が、皆さん分かったでしょうか、私が言おうとしておる事が分かったでしょうか。いよいよ豊かに、いよいよ大きくおかげを頂いていくために、勿論いよいよ自分の心を大きくして行く事の為の修行を本気でさして貰う。
と言う事と同時に、いよいよ、自らなら心への帰依が出来れる所の信心にならして貰う。ここ辺を間違えておりますとですね、はあ自分の様な汚いもの、汚いものがと言う様な事出は、何時までも信心が進展しない。汚いものと思うておったのがそれはめぐりだと言う事を分からして貰うて、いよいよこのめぐりのお取り祓いに本気に掛る、だから。だから、この本心の玉がいよいよ洗われて来る。
そこに自分で自分の心が拝まにゃおられん様な物が生まれてくる。そういうひとつの精進をしなければならない。いよいよ親先生との信心が交流する。親先生に信用され、また信用する。信じ信じられる仲にならせて頂く事の努力をいよいよさして貰う為に、いよいよしげしげと、お広前にお引き寄せを頂かして貰うて、先生の信心に触れていくという意欲をもたなければならない。
そして、まあここで私が申しております、その御教えがいかに深遠なものか。いかに広大なものか。広大無辺なものであるかと言う所をです。今日は今朝の御理解を頂かれた後に、佐田さんが御心眼を頂かれて、早く帰らなんからと言うてお母さんにそれを頂いたその事を書いてここに持ってみえた。それには「高」と「正」と字で頂かれた。しかも「高」は楷書で書いてあり。
「正」という字は、こうくずした「正」という字が書いてあった、ね。例えば今朝の御理解なんかはもう信心のですね、もう最高の所を行く所の御教えであったっちゅう。それを皆に分からせる事の為に、もうそれこそ噛んで含める様に言うてあるけれども、そのあまりにも難しいから、高橋さんじゃないけれども、果たして何人分かったであろうかと心配する程に深遠なものであった。
だからあの御教えを本気でもう少し、教学的にも、もっとその神意をです、本当に自分のものになる為に勉強しなければいけないと云う事を言うておられます。その様に高度な物。高度な物と言う事は深い物と言う事も言えれる。高い物は愈々深い物。広大無辺なその、そういう御教えの神意に触れて行く所。愈々信心が深くなって来る。愈々信心が広くなって来る。いよいよ信心が深う広う育って行きよる訳なのである。
だから本気でここには信心の稽古に来るという姿勢が必要であると言う事。皆さんがもうそこで手帳にメモされる。せにゃおられん最近の御理解は実を言うたら。又この御理解がいつ頂けるやら分からんのです。それを分からん所はもう一遍でも二遍でもそれを検討して分からして貰うて、自分の物にさして頂いて、信心が愈々深い広い物になって行く。皆さんどうでもひとつ、信心がですね素直に育って行く。
私の表現がまずいから、先程お話致しました、福岡の御信者さんじゃないですけれども、先生の言わっしゃる事はこの前と今度ではもう違う。と言うてそこに、疑問を感ずると言った様な事で、ジレンマに落ちて行く様な事では信心が詰らん。だからそこんところが分からんなら、もう一遍、尋ねてみる。自分の様な信心で成程が付く所まで、信心を自分の物にして行くと言う事が、信心をいよいよ深めて行く。
今日の御理解は信心をいよいよ大きいものに、豊かなものにして行くという御理解だった。信心、勿論、真心、神心。勿論、信ずる心というのが、いよいよ豊かに大きくなって行くと言う事を言われますけれども、そんなら具体的にそういう信ずる心とか神心とか。真心と言った様な物が、どう言う様な過程をもって育って行くかと言う事を今日、大体申し上げた訳なのであります。
それが信心が育って行く事である。もちろん心も育っていかにゃならん。もちろん自分自身が助からなければ、信心とは先ずは私が助かる以外にはない。家内じゃない子供じゃない、私自身が助かるんだ。是も間違いはない。けれどもその助かったその心でです、私がより修行を致します。私がいよいよより助かる事の為に修行を致しますから、この人の為に、こう言う事の為にと神様が喜んで頂く様な。
いよいよ大きな問題にもです、言わば世界真の平和も願われる。世界総氏子の真実の助かりを、祈らして頂けれる程の信心がなされる。願うだけじゃ詰らん。その為には、私が修行致しますからと言った様な信心。そう言う風にして、育って行くと言う事にはです。もう自分の信心はもう是で事足りたと言った様な、もう分かる所が分かったと言った様な、もう先生の言わっしゃる事は、何時も分かっとると言った様な信心が、自分をもう肯定してしまったんでは、信心は大きくならない育たない。
ですから何時までも、何処までも自分自身を肯定しないでの生き方。是で済んだとは思いません。所か、本当に改まる所があるならば教えて下さい。どういう信心さして頂いたなら、ここんところがどうする事が本当でしょうかと、自分のこうする事が本当だと思っても、それよりもっとより本当があるならば、それを改めていけるという素直な心がです、信心にはどうでも必要である、ね。
お相撲さんの解説で言っております様に。いよいよ力を受けて行く者、いよいよ伸びて行く相撲はです、もう師匠の言う事を先輩の言う事をです、そのまま無条件に、自分の物にして以降と努力する。それは自分よりも下の者であっても、負うた子から教えられる様な思いであっても。それが本当であると気が付いたならば、はっともう自分の物にして行くだけの、私は素直さが必要である。
いよいよ最近の合楽の信心はです「生神金光大神 天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にあり」というお道の信心の言うならお題目である。是が中心であるおかげを受けるのはもう和賀心にならなきゃ駄目。和賀心というのは和らぎ賀ぶ心に本気でなる稽古なんだ。今月今日ただ今、どうぞ私の心の上に和らぎ賀ぶ心を頂かして下されと、言うて願うて来た、今までの信心は。だからその事は変わりはないのですよ皆さん。
その事はそうなんですけれども、その心で、どうぞ改まらして下さい、磨かして下さい、和賀心にならせて下さい。と言う事もです。この人の為に和賀心になろう。お広前の発展の為にいよいよ修行さして頂こうという信心。それを大きな信心。それを今日は大海のような信心だと申しました、鯨の住む様なおかげを本当に頂きたいならば、そこん所に私は、精魂を固めさせて頂ける様な信心。
それこそ、先覚又は先輩がです、おかげを受けておられる、本当に鯨の住む様なおかげを受けておられるという人達はです、もう自分とか自分一家の事なんかはもう全然問題にしてない。例えばここで言うなら甘木の平田さんなんかそうでしょうが。この頃も火事があったそうですけれどももう全然それを問題にしちゃなか。あれ程の方ですから、そこんところをその、お聞き
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